活動報告

第21回例会卓話「イニシエーションスピーチ」

2015年11月27日

『イニシエーションスピーチ』     
藤井裕康会員

2015年4月3日付で横浜東ロ-タリ-クラブへ入会させて頂きました藤井裕康と申します。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
 本日は、このような自己紹介の場を頂き、大変恐縮しておりますが、私の経歴をお話しさせて頂くことで、皆様との交流がより円滑になり、また距離感も縮まるのではないかと勝手に考えております。
大変聞き苦しい日本語かと思いますが、少しの間お付き合い下さい。
私の祖母は元々鹿児島県、旧国名で言いますと、薩摩の出身で、祖父は中国人です。
父と母は中国人ですので、私は日本と中国のクォ―タ-となります。
私は昭和31年2月9日福建省福清市で生まれました。現在59歳です。
30歳で帰国するまで、福建省福清市で生活し、帰国する直前は建設会社の営業の仕事をしておりました。
そして、昭和61年12月7日、妻、長男、次男とともに帰国しました。
当時、日本はバブル真只中であり、活況を呈する祖母の祖国に新天地を求め、心機一転、不退転の
決意で帰国したことを今でもはっきりと覚えております。
昭和62年3月に横浜中華街にある華正楼に調理師として入社し、皿洗いから始めました。
一日も早く1人前にならねばと雑用でも何でも進んで取り組んでいた日々を懐かしく思います。
最初の1年は華正楼本店で、その後1ヶ月新館で働き、残りの期間はずっと鎌倉店で働きました。
計7年華正楼でお世話になりました。その間に様々な調理技術や仕入れ、接客の事、又、人付き合いの事を学ぶことができました。その甲斐もあり、平成5年3月華正楼を退社した後、同年6月に念願のお店、店名は高華飯店と言いますが、そのお店を神奈川区松本町に開店することができました。
出前に息子達の手を借りたり、家族一丸となって働きました。近隣の方々にも支えられ、お蔭さまで経営は軌道に乗りました。
その後、平成10年10月に神奈川区大口に2号店である髙華楼を開店し、平成13年2月に現在の当社の旗艦店である太利夢(現在の店名は魚宴と言いますが)を横浜駅西口に開店し、以降毎年1店舗ずつ、店舗を増やしていきました。お店が最多の時期で12店舗になりました。
ここ数年の不景気の影響もあり、売上も伸び悩みが続く中で、今後の日本の景気の動向も考えここ
数年は計画的に店舗数を減らしました。
現在は6店舗運営しております。その売上の減少を穴埋めする為に、不動産賃貸業、不動産仲介業にも取り組んでおります。そして現在に至ります。
此の度、歴史ある横浜東ロ-タリ-に加入させて頂いたことを大変光栄に思っております。
お誘い、ご推薦頂いた、田中淳一様、安友千治様に深く感謝致します。
ロ-タリ-クラブの目的である「世界における親善と平和の確立」のために、自分自身ができることは何かを、 日々真剣に考えながら、今日まで育てて頂いた皆様方や地域社会の為に「奉仕」する所存です。
未だ未だ若輩者でございます。今後とも皆様方のご指導ご鞭撻をお願いしたく思います。
此の度はこのような場を頂き、改めてお礼申し上げます。ご静聴誠にありがとうございました。 



『イニシエーションスピーチ』     
立川道彦会員

皆さん、あらためまして今日は。立川です。今日はお時間を頂戴しますがよろしくお願いします。
私の名前の「立川」を見て極く稀ですが、「タテカワ」、「タツカワ」と云う方がいらっしゃいますが、私は落語界とも中国地方の野球チームとも一切関係はございません。又、カーテンやブラインドで有名な企業とも縁はありません。
私の父方の出身地は新潟、母方は山口で、私の生まれた所は父親の勤務の関係で当時住んでいた福岡でした。昭和27年7月26日の生まれです。博多生まれという事で「立川、博多生まれか」と共感を求める方が数多くいましたが残念ながら博多に住んだ期間が1年未満だったため期待に沿えなかったことが多かったかと思います。その後東京へ移り、これも父親の勤務の関係で長崎に4年間住んだ以外は社会人になるまで東京で過ごしました。小・中・高校と公立で過ごしましたが中学までは草野球以外はクラブ活動で運動するといったこともなくどちらかと云えば活発でないどこにでもいる学生だったと記憶します。中学卒業後入学した高校は東京都立富士高校と云い昔は第五高女という有能な女子学生が学んだ学校だったとの事です。私が入学したころも才色兼備の女子学生が多く又優秀な女性教師も多く居た印象があります。この富士高校でラグビーというスポーツに出会いましたがその時はこのスポーツと今日に至るまで付き合うことになろうとは想像もしていませんでした。しかし今になって見れば社会人として過ごす時間や結婚以降の時間よりも最も長い時間を過ごしていることになりました。そして、その間に多くの仲間、先輩、友人と出会えた事は私にとって正に宝物です。高校在学中は始終体中キズだらけの日々で学業が不足していた印象を与えた事があってか卒業式の当日ある女性教師から卒業出来て良かったねと慰められた事を今でも覚えています。
高校卒業後初めて私立を経験することになった大学でも学業よりスポーツ優先だったと思います。
3年からある研究室に所属する事になりましたが、その研究室の教授はとても真っ直ぐな厳しい人でありました。そして4年になったある日のこと、研究室の講義日と練習日が同じ日になってしまい教授から「立川君、講義と練習のどっちを取るのか」と問われました。もちろん講義はとても重要でしたが週末の大事な試合に出るためには練習に参加することは必須でありまして、熟慮の結果練習を選びましたが推測のとおり教授から青筋立てるが如く怒られ、そればかりでなく後で完成させた卒業論文に不足な点があったとのことで追加論文提出の指示を貰う羽目になりました。就職も決定していた時期でもありとにかく追加分を提出して何とか卒業に漕ぎ着けた訳です。
社会人として初めて勤務した場所は広島県三原市の三菱重工の工場でした。
三原市は人口85,000人程の小さな街でしたが三菱重工の従業員が約5,000人居る企業城下町でした、海が近く魚も美味しい良い街でした。三原市には8年住み東京へ転勤となり以降50歳半ばまで三菱に勤めたのち縁があり現在の鶴見精機に移籍しました。
家族は3人娘と家内の女系でしたが今年次女が産んだ初孫が男子で漸く立川家に男が加わった事は今年の明るい話題です。
そして今年の6月に大野様、枡崎様、パストガバナー・前会長というリスペクトされるお二人のご推薦を頂きこのクラブに入れて頂きました。新参者でまだまだ様子も判っておりませんが平日ゴルフは難しい中懇親会には極力参加して親睦を深めたいと思います、どうぞよろしくお願いします。

以上が経歴に関しての紹介になりますがそろそろ退屈になった頃かと思いますのでここで私の或る体験を紹介して今日の話しを終えたいと思います。その話に表題を付けるなら「戦後生まれの戦中派」となります。時は昭和から平成に変わる頃でした、三菱の仕事で中近東のイラクに単身で長期出張をしておりました。滞在していた都市は首都のバクダッドではなくイラク南部、クウェートの国境に近いバスラという所でした。
仕事は地下から回収した原油から砂、水などの不純物を除去して輸出が可能なクリーンな石油に変換するプラントの建設工事でした。
赴任してフェンスに囲まれたキャンプに到着して先ず目に入ったのは食堂でもなく宿舎でもなくグランドにあった地下防空壕でした。両方向から進入して地下で合流する約30㎡の広さの防空壕を毎日清掃する作業員が居ましたが、はてこれが使用されるのかと思った次第でした。滞在時はサダムフセイン政権下イランイラク戦争の真最中で居住地域の傍を戦車や兵士を乗せたトラックや隣国へ向かう戦闘機をよく見かけたものです。外国企業には事務所にフセイン大統領の肖像画を掲示する義務があり正に戦時下でした。赴任してしばらく日が経った夕食の時でした、突然近隣から腹をつんざく爆発音と天高く舞い上がる火柱を目撃したのです。誰かの声「防空壕へ入れ」で一斉に地下防空壕へ皆なだれ込みましたが、そこには何と付近に住んでいる遊牧民も羊と共に避難していました。暴発は治まるどころか益々激しくなり防空壕内部に熱風が侵入する様になり更に強い熱風が避難している人々の体を叩くように駆け抜ける状況に変化しました。この状態はおよそ1時間続き、そのうち暴発物が防空壕を直撃して崩壊して生き埋めになるのではないかという恐怖で生きた心地はしませんでしたが爆発音が漸く止み恐る恐る地上へ出て互いの生存を確認出来たものです。文献や雑誌で時折皆さんも爆風という文字をご覧になったと思いますが、私はこの状況が爆風なのだその時実感しました。
この様な危険な環境下での赴任でしたが危険手当としては戦争国のため保険会社の商品保険は付保されず(保険関係の方いらっしゃったら申し訳ありません)会社が支給する僅かばかりの日当だけでした。
又バクダッドで日本の商社のお宅で食事中近所で大きな地響き音がしましたが駐在の商社マンから隣国から発射されたミサイルと説明を受けました。間違いがあれば直撃を受けていたところでした。現場に行くと半径数十メートルの大きな穴が出来ていました。
当時は長女が幼稚園に通園していた時期でありましたが国内に不在でしたので「お父さんはわたしの運動会に一度も来なかった」としばらくの間言われたことが少し辛かった記憶があります。
今、世界中でテロ、暴動が起こっています。2001年のニューヨーク同時多発テロに始まり2004年の
マドリッド、2005年のロンドン、2008年のムンバイそして今年はパリで痛ましい事件が発生しています。その中で日本は安全な国といわれています。先週大野様のお話しにもありましたが、タクシーに物を忘れても持ち主に戻る国が日本です、水と安全はタダで手に入る日本です。この誰もが認める安全な国であることは結構だと思いますが、日本で2020年にオリンピックが又その前年2019年にはラグビーワールドカップが開催され多くの人が日本に押し寄せます。
陸続きの国境を持たない平和な環境の日本ですが、平和ボケになってはいけないのではないかという私見を述べさせて戴いて本日のお話を終わりたいと思います。
有難うございました。


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