活動報告

第34回例会卓話「命の大切さ」~東日本大震災が教えてくれたこと~

2016年03月11日

「命の大切さ」
~東日本大震災が教えてくれたこと~      

宮城県南三陸教育事務所
    教育班 次長(指導主事)伊東 毅浩様





皆さんこんにちは。
 まず初めに,あれから5年目を迎えた3月11日に,このような機会を与えていただきましたことに感謝を申し上げます。
 さて,私はこれまで全国の小学校・中学校・高校・大学・PTA・教員・地域・企業,団体等,様々な場面でたくさんの方々に,「命の大切さ」について語る機会をいただいて参りました。今日の午前中も,東京の小学校で「命の授業」をさせていただきました。これから30分間という時間の中で,いつも私が子ども達に,大人の皆さんに,何を伝えているかということを,急ぎ足にはなりますが,その一部でもお伝えできればと思います。





 まず初めに,今の東北の様子をご説明いたしましょう。ご覧いただいている写真は,現在の気仙沼市のかさ上げ工事の様子です。右側に見えるトラックが停まっている道路の部分が震災前の高さであり,左側の土を盛った部分の高さまで4~5mほどかさ上げを行っています。一口に「かさ上げ」と言っても,その高さは場所によって様々で,お隣の岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町では10数メートルも地盤を高くしている場所もあります。5年経ってもこのような工事が行われているのが現状であり,復興よりも復旧が進んでいないのです。
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 ごらんいただいているのは,私が昨年度まで勤めていた学校のある,宮城県塩竈市浦戸諸島の写真です。ここはどこだと思いますか。海に見えますよね。しかし,次の写真をごらんください。





 ここはもともと陸地でしたが,地盤沈下により満潮時には海になるのです。太平洋側は場所によって約1m程度地盤沈下したと言われており,1mかさ上げしても元の高さにしか戻らないのです。そこで,同じような津波が来た時のために,防潮堤を作ったり,かさ上げをしたりするなどの対策が行われているのです。
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 私は高校生の時に宮城県沖地震を経験しました。宮城県では生涯の中で2度あるいは3度,この大災害に直面すると考えられています。ですから,子ども達に,どうやってその災害と向き合って生きていくかということを伝えていきたいのです。





 私は震災の9ヶ月後に,インドネシアのバンダアチェに行ってまいりました。理由は,どうしてもこの目で見たかったのです。スマトラ沖地震から7年経ったインドネシアが,どのように復興しているのかを。現地で驚いたことは,あまりの被害の大きさと,その原因の一つが,それまでに「防災教育」が十分に行われていなかったということです。地震の後で,家が壊れていないかどうかということに気を取られ,津波に対する警戒がほとんど無かったというのです。
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 三陸沿岸はリアス海岸で有名ですが,これまでに何度も津波の被害に遭ってまいりました。近い所では昭和35年のチリ地震津波などがあります。そこで,気仙沼では震災前より様々な形で防災に力を入れてきました。防波堤や津波観測システム,防災行政無線やエリアメール。津波避難ビルの指定と市民への啓蒙等,様々な形で活動を行ってきました。





 防災マップワークショップなども公民館や自治会等を中心に実施しました。しかし,地域全体に参加を呼びかけましたが,若い世代の参加はあまり多くなく,そのことから,学校を中心とする「防災教育」の推進に力を入れました。





 気仙沼市立階上中学校では,震災前から「自助」「共助」「公助」の3つのテーマを一年間ずつ学んできました。けが人の救護や避難所設置・炊き出し等の訓練を積み重ねてきたことにより,実際にこの学校の卒業生が,避難所で活躍をしました。その他の学校でも,津波からの避難訓練を実施するなど,港町気仙沼ならではの様々な活動が積み重ねられてきました。各学校がそれぞれ工夫しながら防災教育に力を入れてきたのです。
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 これは今,私の財布の中に入っている,私のお守りであり,宝物でもあります。気仙沼市役所の駐車券です。あの日,3月11日。私は気仙沼市教育委員会に勤めていました。その日は,私の自家用車に上司二人を乗せて,仕事で市内を走っていました。海沿いの道路を通り,市役所に戻り,たまたま立体駐車場の屋上に車を停め,階段を降りて2階の教育委員会事務室に戻りました。自分の席に座った瞬間にあの地震です。もしも市役所に戻るのが12分遅かったら,私はここにいません。私はたまたま12分の差で生き延びることができました。しかし,中には1分1秒の差で命を落とした方がたくさんいるのです。その方々の思いを,全国の皆さんにお届けするために,私はこうやって活動を続けています。
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講演では,いつも子どもたちにこの質問をしています。「声を出したり,隣の人を見たりしないで,頭の中だけで考えて下さい。あなたのクラスで,一番強い人は誰ですか?」子どもたちは上を向きながら真剣に考えています。「今日の講演の最後にもう一度質問をするから忘れないでね」と付け加えます。この話は後ほど続きをします。
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 「津波が来るぞ!」という叫び声の中,半信半疑の私たちは窓の外を見ました。「ゴゴゴゴー!!」という音とともに,家や車が流されてきました。私たちは「屋上に逃げろ!」という声に押されて,必死で走りました。そこで見た風景がこの写真です。目の前に駐車場でおじいさんが取り残されていました。誰も助けにいくことが出来ず,ただ「頑張れ」と叫ぶことしかできませんでした。津波の前では,人間はあまりにも無力でした。しかし,運良く流されて来た小屋につかまって,おじいさんは何とか助かりました。
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 この船は津波によって内陸まで運ばれた漁船です。「この船を見るたびに,失った家族や壊された家を思い出すのがつらい。撤去してくれ」という市民の声により,現在は跡形もありません。この船があった時には,365日,常に人がここに集まり。花を手向け,手を合わせていました。外国の大統領をはじめ,気仙沼を訪れるほとんどの方がここに行ったと思います。しかし,現在は更地になり,誰もここに立ち止まる人はいません。「撤去してほしい」と訴えていた人たちも,「誰も来なくなって,忘れられたようで寂しい」と話しています。震災遺構の保存については,南三陸町の防災庁舎をはじめ,様々な議論が続いておりますが,とても難しい問題だと思います。しかし,個人的には,未来の子どもたちに津波の恐ろしさを伝えるためにも,私はこの船を残してほしかったと,今でも思っています。
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 ここで,私の家族の話をします。私の自宅は高台にあり,決して津波は来ないことは分かっていました。私の両親と妻,息子,そして私の5人家族(?)で済んでいました。(?)の意味は最後に分かります。私が自宅に帰れたのは一週間後です。津波は来ませんでしたが,家の中はぐちゃぐちゃでした。テレビなどの家具は倒れて壊れ,床には割れた食器が散乱し,足の踏み場もありませんでした。両親は割れたガラスを片付けようとして手を切り,妻は「おじいちゃんとおばあちゃんは集会所に避難して,私は蒼空(息子の名前はそらと言います)を迎えに行くから」と言いました。幼稚園の年長だった息子は,いつも3時に幼稚園の車で帰って来ました。しかし,その日は時間になっても帰ってきません。そこで妻は車で迎えに行ったのです。後で聞いた話ですが,妻は大津波警報が出ていることを知らなかったそうです。





 妻が到着すると,幼稚園は無人でした。そして,辺りを見回すと,普段は無いはずのロープやらバケツやら,色々なものが転がっていて,一面水浸しでした。その時,妻は初めてそこに津波が来たことを知ったのです。妻は,たまたま津波が去った後にそこに着いたので助かりました。私は12分の差で助かり,妻も,津波が来ることを知らずに海に近い幼稚園に向かい,たまたま助かったのです。
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 気仙沼市では,学校での犠牲者はゼロです。校舎に津波が押し寄せ,高台に避難,あるいは校舎の2階や3階に避難した学校もありましたが,全員逃げることができました。しかし,翌日は中学校の卒業式だったために中学3年生は下校していました。下校途中で,あるいはその日学校を欠席していて亡くなった児童生徒もいました。さらに,せっかく先生方や仲間と一緒に高台に避難したのに,家族が迎えに来て,帰る途中にそのまま車ごと津波に巻き込まれた家族もいました。このことを教訓にして,現在では警報等が解除されるまで,保護者が迎えに来ても引き渡しをしないことにルールを改めました。
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 震災当日は教育委員会の自分の席に座り,街を燃やし尽くす勢いの,真っ赤に燃え上がる炎を見ながら一晩中起きていました。翌日12日の朝,「教育委員会から2名,気仙沼中学校の避難所運営に行ってください」という呼び掛けがあり,私は「行きます」と手を挙げました。気仙沼中学校に到着すると,450名の人々が体育館で震えていました。市役所からは合計9名の職員が集まり,私が責任者になりました。真っ先にやったことは食料の配布です。学校にはわずかに備蓄用の缶入りビスケットがありました。お菓子の入っていた紙の箱にビスケットを移し替えて,私はステージからこう叫びました。「大変遅くなりました。気仙沼市役所の者です。これからビスケットをお配りしますが,申し訳ございません。一人3枚しかないのです。ご協力をお願いします。」そう言って7名の職員は手分けをしてビスケットを配り始めました。と,その時です。先ほど私の持っている箱からビスケットを持っていった人が,再び手を伸ばしてきたのです。思わず私はその人に背を向けて,箱を抱きかかえました。何故ならば,もう一度その人に取ることを認めれば,後ろの人までビスケットが回らなくなるからです。私は瀬中でその人に,「あなたはもうビスケットを取ったではありませんか」とメッセージを送りました。すると,その人はどうしたと思いますか? 何と,「すみません,4枚取ってしまいました」と言って,ビスケットを1枚返しに来たのです。私は感動しました。と同時に,とても恥ずかしい気持ちになりました。私はその人を疑っていたからです。もしも自分の手のひらにビスケットが4枚あったとしたら,私は返しに行った自信がありません。今回の震災で「日本人は礼儀正しい」とか「東北の人間は我慢強い」などと言われましたが,たしかにそうだと思います。でも,実際には残念な出来事もあったのです。
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 校長先生にご理解をいただき,教室を16部屋お借りして,各部屋に約50名ずつ避難民を入れました。停電でストーブが使えなかったので,体温で暖めるしかないと考えました。体育館は天井が高く,とても寒かったのです。名簿を作ったところ,避難民は800名に膨れあがっていました。各部屋から班長と副班長を出していただき,第1回班長会議を行いました。毛布の確保,食料の分配,掃除当番など,私が教員として学校で実践してきたことを,避難所で応用しました。自治会等の組織は使えない状況であり,ここに新しい村を作るしかないと思いました。





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 避難上運営を通して学んだことはたくさんありますが,今日は時間の都合でカットさせていただきます。





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 皆さんに考えてほしいことは,当たり前のことですが,「一番大切なものは『いのち』」ということです。たとえ小学生であろうとも,自分のいのちは自分で守る。そのことは忘れてほしくありません。誰かが助けてくれるのではなく,自分で守るのです。いや,今回の震災でも小・中・高校生が必死になって逃げる姿を見て,「これは危ないぞ」と思って一緒に逃げた大人は助かりました。「まさか津波が来るはずはない」と言って逃げなかった大人たちがたくさん犠牲になったのです。ですから,子ども達には,「君たちが最初に逃げることによって,大人たちの命を救うことにもなるんだよ」と伝えています。






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 全国の皆さんにお願いしていることがあります。それがこれです。あの日,3月11日に何があったのかを忘れないで下さい。そして祈ってください。皆さんと同じ年齢で,志半ばで天国に行った人たちが安らかに眠れるように。家族や家を失った人たちが,一日も早く立ち直れるように。そして,感謝し





てください。普段,当たり前のように使っている電気や水が,とても貴重であることを。自分自身が生きていることを。すべてのことに感謝してください。そして考えて下さい。「自分は何をすべきか」ということを。そして行動してください。行動とは「生きる」ということです。ちなみに,私は「生きる」ということは,「自分」そして「すべての人」を大切にすることだと思います。相手を活かしてあげることもその一つです。
 「自分」そして「すべての人」を大切にするとはどういうことでしょうか。私は学校を訪問する時に,児童生徒にあることを聞きます。「募金箱にお金を入れる時に,どんな気持ちだった?」「段ボール箱に鉛筆やノートを入れて送る時,どんな気持ちだった?」と。全国の子ども達は,皆素晴らしいことを言います。「優しい気持ち」「早く立ち直ってほしい気持ち」その他もろもろです。






 そこで私は,意地悪なことを聞きます。「では聞くけどね,募金箱に10円玉を入れた時の優しい気持ちで,君たちはいつも隣に座っている人や,前や後ろに座っている人に接しているの?」と。全国の子ども達は下を見ます。そこで私は続けます。「君たちが10円玉を募金箱に入れてくれた時の優しい気持ちを伝えてほしいのは,実は東北の人たちではなく,今,君たちの隣に,前に後ろに座っている仲間なんだよ。東北の人たちはかわいそうだけど,近くのこいつは憎たらしいというのはおかしくないかい? 君たちが隣の友達に優しくすれば,その人は嬉しくてその隣の人に優しくする。こうしていけば,たとえ時間はかかっても,優しさの波はいつか必ず東北に届くと思うんだ。今日私はもう一度君たちに募金をしてほしくて来たんじゃないよ。たしかに,皆さんの募金で助かったし,今でもそれを必要としている人はいる。でも,君たちの優しい気持ちを一番伝えてほしいのは,実は,君たちのすぐそばにいる人たちなんだよ。」と。
 ~(途中省略)~(「一番強い人は一番優しい人だという話」「自分の家族のその後の話」などもします。)
 すみません。お話したいことはまだまだたくさんありますし,普段の講演ではもっと色々なお話をさせていただいています。今日いただいたお時間はもう終わりに近づいていますので,最後に気仙沼市の小学生が震災の半年後に書いた詩を紹介して私の話は終わりにさせていただきます。












 この詩を書いた菊田心君のおじいさんは警察や消防の方々が見つけてくださった時には,もうお亡くなりになっています。でも心君は「ありがとう」と言っています。被災地では,また肉親が見つからずに,さよならをすることさえ出来ない方々がたくさんいるのです。
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 私はこれからもこの活動を続けていきます。今回の震災で,たくさんの友人や教え子を亡くしました。その人たちの分も,私は「命の大切さ」を伝え続けていきたいと思います。いつでも皆さんのところにお邪魔しますので,遠慮なく声を掛けてください。
 本日は,3月11日という日に,このような機会を与えていただき,本当にありがとうございました。
再びお会いできる日を楽しみにしております。どうぞお元気で。



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