活動報告

第38回例会卓話「イニシエーションスピーチ」

2016年04月08日

「イニシエーションスピーチ」
加藤秀夫会員

 私が横浜東ロータリークラブに入会してから早くも半年が過ぎました。
今では入会できた事を心から嬉しく思い,充実した日々を過ごせる事に感謝しております。
特に、和田晃様には二年以上にわたりリクルート頂き本当に感謝しております。
この場をかりまして改めてお礼申し上げます。 
 昭和33年6月9日,加藤弘、波子の長男として生まれました。 父は昭和6年11月10日生まれ。母は昭和8年12月5日生まれです。2人の長男として生まれた私の誕生には奇蹟に近いエピソードがあります。
父は独身時代、仕事で北海道に渡ることになり、青函連絡船に乗りました。父が函館港に着いた次の便は大型台風の影響で沈没したそうです。あと1便乗船が遅れていたら洞爺丸事故に遭遇していました。母の生まれは南洋パラオ諸島のテニアン島コロールという町でした。戦前の日本統治時代に福島から渡った家族だったそうです。終戦前、最後の引き上げ船にて横須賀港に着き、祖父母の故郷である福島県に帰省し、青春時代を過ごしたそうです。青春時代を福島で過ごした母にはフィアンセがいました。
しかし、工事現場での落盤事故で命を落としました。
そんな母を心配した知人が、見合いをすすめました。
当時北茨城に櫛形炭鉱という炭鉱街があり、駅前旅館二階で見合いをしました。その1回の見合いで直ぐに結婚しました。そして、翌年に私が生まれました。両親の出会いと結婚は偶然が重なった結果ですが、私が生まれたのは奇跡だと思っています。
 昭和33年の干支は戊戌(つちのえいぬ)になります。暦で運勢を調べて見ました。「強運の持ち主。波乱あり。商才があり、財力や名誉を兼ね備える。物事に凝り性なところがあり、独断と偏見に傾くことなく慈悲心を養うことが出来れば強力な支援者が現れ成功に導かれ、成願成就となる。」との事です。
私にとってのロータリークラブ入会が成願成就の第一歩であるものと確信しております。
「社会人としてデビュー」
 昭和56年4月、神奈川大学経済学部貿易学科を卒業し立花証券株式会社に入社しました。配属先は新宿駅前支店。その後渋谷支店を経て、平成23年10月横浜支店勤務になりました。立花証券創業者 石井久氏に憧れ入社した事は、どうやら私に合っていたようです。どのような時代変化にも「株式専門店」として武骨な会社である事が私には良かったようです。証券会社入社した私ですが自覚し誇りに思う事があります。
それは、「株屋」であると言う事です。また証券業は金融業ではなくサービス業であると言う事です。
どんな時代でも、街中の「八百屋さん」や「魚屋さん」のように現場主義であるべきです。たくさん頭を使い、考え、頭の汗をたくさんかく事です。日々、電話の向こう側にいるお客様との会話は、お客様がどんな体調か機嫌がどうかを感じ、あたかもお会いしているような感覚が身に付きます。電話1本で大きなお金が動くわけですから神経の集中力は凄いものです。今でも、成長している自分を感じています
「日本語にノーベル賞を!」
 落語家の立川志の輔さんのCDの中で日本語についての話がありました。同じ演目でも演じる落語家でまったく違う風景になってしまう不思議。これは日本人のもっている「間(ま)の心」「阿吽(あうん)の呼吸」からくるものだそうです。落語という文化が日本で発展し、外国にはない理由が日本語そのものにあるそうです。例えば、英語で数を数える時、全てワン、ツー、スリーが基本。ところが、日本語では1人、2人、3人になり、1個、2個、3個になる。ウニは1ツボ、2ツボ、3ツボと数えるそうです。土地もウニも「ツボ」と数えます。それぞれに「人」「個」「ツボ」と付けることで何を言っているのかわかる。英語で自分の事を「アイ」と言いますが日本語では「私」「俺」「拙者」「僕」等々。相手の事は「ユー」と言いますが日本語では「あなた」「おまえ」「てめえ」等々。
単語一つで言葉の奥行、立体感、感情まで理解されてしまう言葉は日本語以外ありません。会話でも「あの件だけど・・・それでやっておいて」なんてアメリカ人には理解できません。日本人なら「あの件ね。わかった。」とかで通じてしまう。
「直観力」
この日本語の素晴らしさは言葉の表現だけではなく、心と心が繋がっているからだそうです。そして、自然と子供のころから養われたものとして「直観力」があるそうです。直観力が世界で一番優れている民族は日本人だと言っている学者もいます。 証券業を生業にしている私は、生涯現役を宣言しております。
この日本語という素晴らしい言葉を使い、「株屋」としての直観力を磨き多くの出会いと感動を皆様とともに共有できるよう勤める所存です。諸先輩皆様におかれましては、ご指導をよろしくお願い申し上げます。
本日は、本当にありがとうございました。


                      
「イニシエーションスピーチ」
倉迫益造会員

昨年、10月に入会させていただきました倉迫益造です。昭和20年11月、岡山県阿哲郡(現新見市)哲西町で生まれました。父は大工、母は教師をしておりました。現在、実家には誰も住んでいません。盆暮れにお墓参りで帰省し、近所にご挨拶にお伺いするくらいになってしまいました。田畑は無耕作地、山林も手を入れておらず、近隣に迷惑をおかけしてはなりませんので「シルバー人材センター」にお願いして手入れしてもらっています。中国山地の真ん中で、目の前を中国自動車道が走る典型的山村です。
(会社の事)
昭和43年3月、岡山大学法文学部卒業と同時に、市売木材株式会社(現すてきナイスグループ株式会社)に入社いたしました。
最初は総務部配属となり、庶務のお手伝いから始まりました。木材のセリ売りを業とする鶴見木材市場の付随業務も行っておりました。
不慣れな運転で集金にも出かけました。東京の材木店にお伺いするにも地図がなくてはなりません。白い紙に環状8号線を中心として枝分かれに線が引いてあり、○印と「ここ」と表示があるだけの地図でした。今ならこの地図ではなかなか行き着けませんが、当時は大きな建物は少なく、材木店は敷地も広く製品の材木が目印となり即わかりました。
昭和45年から長野木材市場に勤務となりました。昭和46年、社名が日榮住宅資材株式会社となりました。昭和49年から相模原木材市場、昭和52年から本社総務課、昭和60年から福岡木材市場に勤務いたしました。その後、昭和63年からは主にナイスコミュニティーで勤務しております。木材市場は毎週水曜日とか7がつく日(7・17・27)が市日と決まっています。市日には沢山の材木店様にご来場いただきセリ市を行います。したがって市日と市日の間は全国の木材産地の製材工場へ出荷のお願いに回る事(荷主回り)と市場へご来場いただくために材木店を回る事(買方回り)が主な業務です。
市ではお酒を沢山出しました。沢山飲んでもらって、沢山買ってもらうのが仕事でした。おつまみは焼き鳥、魚貝、肉のバーベキューです。市の最後はお買い上げ伝票の枚数でのお楽しみ抽選会です。景品で印象に残っているのは、大きな松茸・生きた大きな鯉・自動車です。そして年36回とか年52回とかの市に全日ご来場いただきますと「皆勤賞」として「魚沼産こしひかり」一俵を差し上げていました。景品は東京・横浜などの都心より地方の方が豪華でした。
あれほど盛んであった木材市場も、その後の木材の流通の変化で今は年数回開催される程度となりました。木材は乾燥材が主流となり、プレカットされた木材が建築現場に運ばれますので、木材産地から木材市場のルートは少なくなり、産地からプレカット工場へ出荷される事となりました。
戦後の復興から高度成長時代を支えた木材市場、木材のセリ売りはその役割を終え、ストックヤード等の役割を果たすのみになりました。
(横浜大空襲)
木材市場の歴史の中に、必ず「戦後の焼けのが原」という言葉が出てまいります。東神奈川に慶運寺というお寺があります。会社のご先祖様のお墓がありますので、時に参拝に行きます。慶運寺にある石碑の中には、一家族と思われます5名の名前があり、命日が昭和20年5月29日で同一というのがあります。横浜大空襲の日です。その前も、またその後も鶴見は何度も空襲に遭っています。今井清一横浜市立大学名誉教授の書かれた「大空襲5月29日」(有隣新書)を読み衝撃を受けました。
私はこの様な大きな犠牲の上に生きている事を忘れてはならないと思っています。
(ベルリンの壁)
本社総務課に勤務しておりました昭和58年12月にスイスでの外債発行に同行させていただきました。無事スイスフラン建社債発行の調印式も終わり、帰途、西ベルリンに入りました。そして、西ベルリンから東ベルリン視察を行いました。当時は東西対立が激しくベルリンの壁はその象徴としてありました。
西ベルリンから東へ入るには厳しい検問所がありました。西の検問所は即通してくれ、東の検問所では厳重な取調べがありました。案内人の運転手さんを含め日本人は社長・総務部長・私の計4名です。こんな穏やかなスパイはいないだろうがと思いながらも案内人さんから十二分に注意するよう言われていましたので、緊張の中でわき目もふれず入国させてもらいました。入国に際し、西の5マルクと東の5マルクを交換し、東の5マルクを持って入りました。
西ベルリンのショーウィンドウには西側で一番良いもの、最先端のファッションで華やかに商品が飾ってあります。入った東は白黒の世界でした。雪の日でしたのでその想いが強力でした。交換された5マルクも使うところはありません。機関銃を持った警備員が高い塔の上で見張っています。写真はとっても良いということで記念写真は撮りました。早々に引き揚げて帰途に着きました。
帰りは東の検問所から入ります。車の下部をミラーで確認、車内は座席シートを剥がし、トランク・ボンネットを開け、ありとあらゆる空間が点検されました。誰かが脱出の為、潜んでいないかを確認しているのです。車の5マルクは取り上げられました。
西に入って「ほっ」といたしました。白黒からカラーの世界に帰ってきました。西側首脳も使用したと言われる踏み台に乗って河をはさんでの東側の状況を見学いたしました。この時期も東から西へ脱出したい人は多く、この後、河を渡り脱出しようとして銃殺されたとのニュースもありました。
1961年に作られたベルリンの壁も1989年、私たちが見学した6年後にはこの壁は崩壊し、東西ドイツの統一が実現しました。この時の緊張感はしっかりと身についております。
(家の事)
現在、我が家は妻と二人住まいです。妻は看護師として虎ノ門病院に勤務後、主婦業に専念しています。その一方で心理学の勉強をし、沢山の資格を取得しています。また、放送大学に15年以上在籍し勉強を続けています。認知症にならない為にはどう生きたら良いかをテーマに続けています。私の健康については実に良くアドバイスしてくれ、その指示に従って病気と仲良く付き合っています。
趣味は「庭いじり」です。ローズマリー、ラベンダー、ミント、クリスマスローズ、バラや四季折々の花を植えています。一年中何かの花が咲いており、楽しく暮らしています。
(現在の会社)
木材市場でのセリ売りは殆どなくなりましたが、現在は木材も復権しており、通常の相対取引で住宅資材、また非住宅の木材の普及に努めています。以前、セリ市の舞台として活況を呈していた市場は、その姿を変えて物流センター・プレカット工場として発展しています。昭和47年からは始めたマンション分譲事業も、今は阪神淡路大震災・東日本大震災からの教訓から「住まいは命を守るもの」として免震マンションに特化し、合わせて一戸建て木造住宅・地震にも強い未来型健康住宅であるパワーホームの販売に軸足を移して、住宅メーカー化の道を進んでいます。
私は昭和43社の入社以来、ナイスしか知りません。いわゆるナイス馬鹿になっています。この度、横浜東ロータリークラブに入会させていただき、実に新鮮に感じています。生き生きと活動されている皆様から学び、着実にロータリアンとして成長したいと存じます。長谷川会長、熊田会員に迷惑をおかけしないようにがんばります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。



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