活動報告

第22回例会卓話「イニシエーションスピーチ」

2016年12月09日

小野崎毅会員



本年4月に入会させて頂きました小野崎でございます。
イニシエーションスピーチは、当クラブでは初めてですが、実に4回目(港北、川崎北、戸塚)になります。
それだけ支店長を転々とやっているということですが、後ほど触れさせていただきます。
入会の挨拶でも申し上げましたが、生まれも育ちも鶴見で、生粋のハマッ子です。
1963年に東芝鶴見病院で産声をあげました (前原先生には大変ご縁を感じます)。
小中高校を地元の鶴見で過ごし、結婚をした26歳に転居、現在上大岡に住んでおります。
大学を出て昭和61年4月に横浜銀行に就職をしました。
今年で31年になりますが、よもやマイナス金利が適用される時代がくるとは・・・。
因みに、入社当時の頃の預金金利といえば定期預金で5%くらい、100万円を定期にすると年5万円の利息です。マル優があって税金もかかりませんでした。ちょっとした小遣いですね。良い時代だったと思います。今の定期預金だと100万円を1年で100円、税金を引くと80円ということになります・・・。
その後バブル時代を経験し、不良債権問題で困った激動の時代を越え、各銀行が合併し、リーマンショックがあり、3.11の東日本大震災等があって現在。実に支店経験13店舗。このうち支店長は、恵比寿・新横浜・綱島・武蔵小杉・戸塚を経まして、4月から鶴見となりました。新横浜支店長の際には、横浜港北RC、武蔵小杉支店長の際には、川崎北RC、戸塚支店長の際には横浜戸塚RCにて楽しくやらせて頂きましたが、例会の食事は大変貴重であるなと、強く感じております。
そして入会時にも申しましたが、趣味はマラソン。10月には100kmを完走してまいりました。
マラソンを始めたきっかけは平成13年、37歳の時でした。当時の銀行の経営環境は劣悪で、都市銀行では相次ぐ合併・経営統合が起こり (メガバンクという名はこの当時に誕生)、横浜銀行も合併の噂が揶揄されました。当時の私は、大変辛い仕事の連続でありまして、そのため暴飲暴食の日が続き、健診ではついに医者から、立派な成人病だと診断されました。何かやらねば・・という状況に追い込まれていました。そこでの救世主は、同様に立派な成人病の同僚でありました。互いに刺激し合って継続できるもの、そして手軽にできる運動ということで、マラソンに目を向けたわけです。
最初に目標としたのは10kmレース。自身では未知の世界であり、完走した時の達成感は最高でした。
勢いよく翌年にはハーフマラソンに、そしてまた翌年には42.195kmを完走できるくらいになりました。更にはウルトラマラソンと言われる100kmマラソンにも挑戦と、アスリートではないので、距離だけならば何とかなるだろうということで走ってきました。思えば、これまで15年間で約100回のレースに参加。因みに参加賞はだいたい大会独自のTシャツでありまして・・・売るほどあります。
マラソンは、趣味でありながら自身の健康管理につながり、精神力も鍛えられるものと感じています。
また見方を変えれば、各地で開催されるレースへの参加は、地域貢献あるいは村おこしのような社会貢献に繋がるものとも思っております。走る喜びと勿論レース後の一杯を楽しみに・・・継続しております。
最後に、2/11チャリティマラソン、万難を排して参加をさせていただく予定でおります。
つたない話でありましたが、ご清聴ありがとうございました。引き続きご指導のほど宜しくお願い致します。 



岩渕恵都子会員



皆様こんにちは。本日卓話を仰せつかりました岩渕です。大勢の前で話をするのは慣れていません。お聞き苦しいことが多々あると思いますが宜しくお願い致します。
 紹介所の業務は職業安定法に基づき厚生労働大臣が有料で職業紹介所を認めている民間の職業紹介事業所です。簡単に言えば職業安定所の有料バージョンです。手数料を頂いて利用者の方へ家政婦を紹介します。紹介所と家政婦の間での雇用関係はなく、登録制になっています。テレビに出てくるスーパー家政婦もいませんし、ミタゾノのような家政婦もおりません。普通の方です。有限会社ひかり看護婦家政婦紹介所は昭和28年2月に主人の母が設立し、昭和53年主人の母が亡くなってから私が代表取締役になり引継ました。その頃は病室で泊まり込んで患者さんのお世話をする体制の仕事が多く、出稼ぎの家政婦が地方から出てきました。同時に3人の患者さんを介護した場合賃金は60万円にもなりました。
 平成8年3月末、社会的入院を終了させるべく付添制度は廃止され家政婦にとっても紹介所にとっても夢のような時代が終わりました。
 平成12年4月、傷病は医療機関で、要介護の状態はソーシャルワークでという考え方から介護保険制度が施行されました。介護保険とは介護の必要な高齢者を社会全体で支える制度です。これまで医療保険、老人保健、福祉に分けていた介護サービスを総合的に受けることが出来、又必要なサービスを利用者自身が選択できる制度です。地方自治体が主体となって運営し、要介護認定をうけ、要介護要支援となった方が利用できます。
介護保険が始まってから家政婦の仕事も一変し、様々なケースに対応することが多くなりました。一つは認知症の方が増えたことです。暴言、徘徊等の方が多く見受けられます。後は介護保険では出来ないサービスを頼まれて、短い時間の仕事が多くなり、移動時間のロスが生まれてしまい、スケジュール管理が難しくなりました。
 介護保険開始に伴い別法人有限会社ひかりケアサービスを設立し、介護保険の居宅介護支援事業と、訪問介護事業を行っています。娘の夫が代表取締役を務めています。
 私も平成17年にケアマネージャーの資格をとり、2年間位ケアマネージャーの仕事もしたのですが、現在は紹介所の仕事に専念しております。
 2025年には4~5人にひとりが認知症という時代を迎えるようですが、皆様には一人も認知症になることなく、ロータリアンとして社会貢献に励まれることを願って卓話終了と致します。




桒名仁会員



今年8月に入会した鶴見公証役場で公証人をしている桒名です。よろしくお願いします。今日は、自己紹介、特にこれまでの検察官生活や刑事事件について、お話ししたいと思います。
 私は、昭和30年に高知県の大豊町で生まれました。徳島県境沿いの過疎の町で、名所旧跡もない町ですが、20年くらい前に、日本で最初に限界集落と認定された町として少し有名になりました。高校まで県内にいて、大学は青山学院大学法学部に入学し、数年の浪人生活後、司法試験に合格し、横浜で修習しました。
 そして、昭和60年4月、検事に任官しました。以後、29年間勤務し、平成26年3月に退官しました。
 任官当時は、好景気の時代でした。そのため、公務員は不人気で、検察官不足、裁判官不足で、特に検察官は長らく定員を切っている状態で、希望さえすれば任官可能だったこともあり、検事になりました。現在は、司法制度改革により法曹人口が急激に増加したことも加わって、任官が極めて困難です。
 他方、給料は低いといわれながら、公務員天国で、待遇は極めてよく、特に地方ではお客様扱いをしてもらいました。ところが、バブルがはじけ、不景気により民間企業の待遇が悪化したことに加え、官官接待、大阪地検特捜部の証拠品改ざん事件(H22)、小沢事件の捜査処理による検察批判などから、公務員バッシング、検察批判が始まり、現在では、綱紀の厳しさ(役所内での飲酒禁止など)、仕事上のミスには厳しい処分が下されるなど、大変な状態にあります。その意味で、私は、結果的に、いい時代に検察官として勤めてきたと思っております。
 検察官には転勤がつきものです。多くの検事は、東京を中心にして地方への転勤を2~3年ごと転勤します。私は、7か所、南から沖縄、福岡、大阪、東京周辺(東京、千葉、小田原、川越)、旭川への転勤を経験しました。
 どこの勤務地が一番楽しかったか、と聞かれます。一般には、福岡と札幌があげられますが、私個人的には沖縄です。若い時に勤務したこと、ここで結婚したことが理由で、公証人を退職した後は、沖縄に移住しようと考えています。
 仕事は、たくさんの事件を経験したのですが、主に東京地検公安部に長く勤務し、公安事件を中心に担当しました。一番印象に残っている事件は、平成7年に発生したオウム真理教事件です。1年近く、休みもなく信者の取調べを担当しました。
 刑事事件については、一つだけお話しします。
裁判員裁判は、平成21年に導入されました。当初、実現可能か、有罪を維持できるかが心配されておりましたが、実際には、麻薬の密輸事件で数件無罪が出た程度で、高い有罪率で、しかも極めて重い判決が出ております。
この様に今のところ、うまくいっているものの、最近裁判員の確保がしにくくなっていると言われるようになり、この制度がうまく続くかどうか、関心を持っております。
以上が自己紹介です。今まで仕事の関係で必ずしも出席率が高くないのですが、今後、できるだけ出席し、いろんな行事にも積極的に参加したいと考えていますので、よろしくお願いします。



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