活動報告

第15回例会卓話「イニシエーションスピーチ」

2017年10月27日

「イニシエーションスピーチ」
長戸はるみ会員


 自己紹介
私は川崎生まれの川崎育ち、250年程前から代々現在の所に住んでいます。先祖は自宅前にある曹洞宗のお寺の住職、皆様ご存知様に昔のお寺は世襲制度ではなく、住職は亡くなると本山から新しい住職がきますので代々住職ではありませんが、私で7代目、9代目までの孫がいます。子供の頃は周りに女の子がいなかったせいか男の子と遊び、おままごとより外で遊ぶ方が好きでした。おかげで幼稚園からかけっこが早くて高校までずっと選手でした。お箏を始めたのは6年生までピアノをやっていましたが、渋谷にある実践女子学園中学に入学して子供の頃からやっていた同級生に誘われたことがきっかけでした。その時学校に教えに来ていたのが芸大で教授をしていた恩師で、中学・高校と6年間は部活と先生の自宅に毎日通い芸大をめざしていましたが、いろいろあり結局そのまま実践女子大に進学しました。お箏のために手や指を怪我しない様にと先生からはスポーツは禁止されていましたので、スキーや登山などアウトドアは大学に入ってからやっていました。海よりは山が好きで特に3大急登と言われる「つばくろ」が好きです。登った方はいますか?会長は週末尾瀬に行きましたが、私も2,3度登ったことがありますが尾瀬といえば水芭蕉ですね、でも青森の水芭蕉のほうが大きくて群生している場所を見た時は感激しました。ぜひ機会がありましたらお出かけください。
大学生の頃からから現在まで母校で琴の授業(日本文化実習)と部活で週3日教えています。
もう一つの仕事は、長男とビル管理業をしています。長男は地元の川崎中RCに在籍しています。次男は美容師で表参道の店で男性専科の美容師として活躍しています。
24年前両親が亡くなるまでは琴だけをやっていた私ですが、同じ年の1月と4月に両親が続いて亡くなり私の生活が一変しました。
私は一人っ子で相続を争う事はありませんでしたが、葬儀を3か月の間に二つ、相続も二つ、一人でやらなければなりませんでしたので、この頃は忙し過ぎてほとんど記憶にもないくらいです。毎日のように弁護士や税理士との打ち合わせをしている中、その年に女性を入れたクラブを作るというので誘われロータリーに入会をしました。(川崎で初めての女性会員)相続等で忙しい中よく入会したものだと思いますが、翌年賃貸マンションを建設するに事になり不動産の事、建築の事、銀行の事等の話を聞く事が出来、お陰様で建設する事ができてロータリーに入っていて良かったと思いました。その頃のロータリーは女性会員が少なく、他のクラブに行っても事務局員や会員の奥様に見られることが多く、何か男性会員の添え物的な感がありました。
長男は15歳から13年間アメリカに留学し、私もアメリカに行き来したり、箏の演奏等でGSEに関わる事が多く世界大会へも毎年行っていました。アメリカの9・11の年、世界大会へ行き9月にこの事件が起こり危ない所だったとテレビを見ながら思いました。14年前にウイスコンシン州へチームリーダーとして行った時は、琴を持って幼稚園から大学まで20か所くらいで演奏をしてきました。毎朝髪を整え着物を着て学校を回わる事も大変でしたが、今ではなつかしい思い出になっています。今でもその時のガバナーと連絡を取り合っています。その頃当クラブの石渡さんと一緒に活動をしていて独特のキャラクターの石橋さんがなつかしく思い出されます。
そういう関係で我が家は外国人の下宿みたいになっていて、友達の友達が日本に来ては我が家に泊まって行きます。その他交換留学生、米山奨学生、平和フェローの学生達と卒業後も交流をして、私もアメリカ、中国、韓国、タイ、オーストラリアに行きました。やはり、自分も行ってお互いの住んでいる国を理解する事が交流の第一歩になるのでは、と思います。
10年ほど前にエチオピアの小学校へ個人的に机と椅子を毎年寄付している方がいて、私も支援のお手伝いをしていました。エチオピアとの国交回復50周年だから行こうと誘われて箏を持って行きました。1800mの高地で私は高山病で気持ちが悪くなりながら、着物を着て皇帝の日本庭園や大使館で演奏した事も 今では楽しい思い出となっています。今の天皇陛下が新婚旅行でエチオピアに行った時の写真が大きく飾ってあるのが印象に残っています。
毎年、3月3日のひな祭りの日に「長戸はるみチャリティーコンサート」を開催して今年で20年になりました。毎回構成、選曲、出演者
の交渉まで一人でやっていますが、皆様のおかげで続けてくることが出来ました。来年も3月3日開催致しますのでお出かけください。
その間、FMかわさきで「長戸はるみのおしゃれなひとこと」という自分の番組を7年間続けていました。この題名も私が考え「ひとことのこと」は「琴」とかけてあります。決められた時間に話をするので、A4サイズの紙に何文字で何分話せるという事が勉強でき、ガバナー補佐等の話をする時に役立っていました。
このような経験から忙しい時こそ色々な事もやればできるという事を学びました。
この度ご縁があり移籍をさせていただきましたが、少人数クラブと歴史ある60人以上のクラブと両方の貴重な体験ができてうれしく思っています。今までは人数が少ないクラブでしたので、毎年のように委員長を二つ掛け持ちし理事になっていましたので、今年度は久しぶりにのんびりとロータリーライフを楽しんでいます。早くお名前と顔を覚える様に致しますので、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
ご清聴ありがとうございました。



「イニシエーションスピーチ」
井上康久会員

皆さんこんにちは。井上康久でございます。この度は鈴木様、田中様のご縁をいただき、当クラブのお仲間に入れていただきました。誠にありがたく存じます。ご列席の諸先輩方、ジェントルマンの皆様の背中を見ながら、精進させていただきたいと思います。ご指導の程宜しくお願いします。
本日のこの時間をお借りし、前半を私のプロフィール、後半を現在勤務しております会社の紹介をさせていただきたいと思います。
①プロフィール
昭和50年6月2日、横浜市中区根岸の旧日赤病院にて、父井上義久、母登美子の長男として誕生しました。当時としては大き目な、体重4300グラムとのことでした。
ここで、少々お時間をいただき、私の生い立ちの前に、家族のルーツを少しご紹介させていただきます。
遡ること、曾祖父の代に戻ります。曾祖父は山梨県甲府の出身であります。明治生まれの曾祖父は県庁に勤務する、戦前の公務員でした。退職前に長男(私の祖父)が東京の大学に進学することを機に、横浜に企業へ職を得て、一族郎党引き連れ、現在の横浜市神奈川区台町に居を構えました。この時期を機に、横浜でのファミリー・ヒストリーが始まりました。
祖父は学徒出陣を経て、戦後、無事帰還がかなうと、空襲で失った家や、家族の生計を立てるべく様々な仕事に従事する中、時を経て、現在私が勤務しております那賀都工業株式会社設立へとつながってまいります。
会社立ち上げまでの間に父義久も誕生し、戦後の混乱期から、復興・成長期へと経る中、父義久も大学卒業後、祖父とともに会社に従事することとなります。後で述べさせていただきますが、この曾祖父、祖父の山梨出身のルーツが那賀都工業という、字にすると難しい、名前に大きく関わっております。
私の父が、縁あり母と結婚し、私が生また時には、横浜市保土ヶ谷区狩場町に自宅及び会社工場を構えておりました。現在、当クラブの坂本さまがお住まいのご自宅の目の前であります。坂本さまもそのころの、私どもの工場の事を、よく覚えていただいており、先般お話をお伺いした時は、大変驚かされました。当クラブでご近所さんとお会いできるとは、非常にご縁を感じますが、当時はご自宅の前で、夜中も操業する町工場を営んでおり、近隣の皆様には、改めてご容赦いただきたいと存じます。
その狩場で地元の幼稚園、小学校を経て、中区三春台というと、聞こえがよいのですが、いわゆる中区黄金町に御座います、関東学院中学校、同高校を経て東海大学に進みました。大学を卒業するころには家業の事も頭では考えておりましたが、近年よく言われます事業継承などと言うような仰々しい考えはなく、ごくごく一般的な、就職活動を経て、晴れて社会人となりました。
就職した先は、私のいい加減な性格には、まったく似合わない銀行でありました。当クラブにも大銀行のご重役もお名前を連なれておりますので、お恥ずかしい限りですが、私のような、鼻たれが、同業であったとお聞きになられれば、一笑に付されてしまいます。
しかしその銀行での足かけ7年の歳月は、振りかえますと、今日の自分の立場に非常に影響を受けた、また勉強させていただいた期間であったと、つくづく痛感しております。
よく言われる『他人の飯を食う』という事かもしれませんが、本日こちらにご列席になられる、諸先輩のような、経営者の皆様、人生の大先輩に直接お会いでき、薫陶を受ける機会が多くいただける職業であったことなど、かけがえのない経験をさせていただきました。
その後、その足かけ7年を経て、父経営の那賀都工業に転じ、当初の一年は、大阪工場に勤務いたしました。学生時代、社会人をとおして横浜、東京・神奈川を出る事のなかった井の中の蛙でしたが、大阪の気風に触れる一年となり、いろいろ勉強になりました。当然現在も大阪に、月に何度も足を運びますが、十年以上たつ今でも中々なれないものであります。その後、神奈川県大和市の本社工場に移り、去る平成26年12月に実父と社長を交代し、現在に至っております。補足ですが、11年前に妻と結婚しまして、小学3年、小学1年、幼稚園の男子3人兄弟を授かっております。
②会社の紹介
ここで現在社長を務めています、那賀都工業の紹介を少々させてください。字で書くと非常に難しい、最初から『ながと』と読める方は稀でございます。この名前の由来が、先程ご説明した、私どものルーツである山梨に起因します。この那賀都と言う文字をネットで検索しますと、弊社と、ある神社に至ります。この神社の名前が大嶽山那賀都神社と申しまして、山梨県塩山の山奥にある神社でございます。氏子として私の曾祖父の代から参拝していた、この神社の名前を、祖父が創業時にそのまま頂いて、社名にしたことに起因しております。故郷に錦を飾るという意気込みか、神頼みのスタートが真実だったかもしれません。
こちらの神社は山梨県の勝沼地方の旧塩山市三富村(現在は山梨市)の山奥に御座います。非常に風光明媚な場所で、歴史的には平安時代以前からの山伏の修験道場としての縁起と承っております。字にして書くとなると、画数も多いので大変ですが、一度この経緯をご説明すると、大抵の方が忘れずに覚えていただいておりますので、この点は感謝しております。ぜひ皆様も末永く忘れずにお願いしたいと存じます。
由来については、以上のような流れでございますが、仕事の中身を少々ご説明いたします。
神奈川県大和市、大阪府茨木市、静岡県富士市の3か所で工場を運営しております。営業品目は冷凍冷熱サイクル部品、簡単に申せば、エアコン、冷蔵庫、冷凍庫関係のフロンガスの循環装置である熱交換器及びその付随配管部品の加工組立でございます。最終的製品は、皆様の身近なところでは大きなビルなどのエアコン、コンビニやスーパーの陳列棚である冷凍冷蔵のショーケース。レストランなどの厨房用の冷蔵庫などでございます。昭和34年に先程ご説明した通り、坂本さまご自宅前の横浜市保土ヶ谷区狩場で創業し、その後大阪、静岡とお得意様の近隣に進出してまいりました。当時は、今新聞を騒がせております東芝様の下請けとして成長させていただきましたが、平成になり、皆様ご承知の通り、昨今は親会社・下請というような系列関係は希薄となり、現在では空調業界はじめ様々なお客様にご愛顧いただくべく走り回っているところであります。なかなか一般の方に馴染みのない製品を生業としておりますが、こちらも是非覚えてお帰りいただければ幸いでございます。現在は狩場の工場は国道一号線の拡張工事の際収用となり、米軍厚木基地の目の前の大和市に移転し約18年がたとうとしております。
縷々長々と取りまとめのないお話をさせていただきましたが、当クラブの諸先輩におかれましては、ご指導の程重ねてお願いいたしまして、ご挨拶とさせていただきます。
ご清聴ありがとうございました。



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