活動報告

第20回例会卓話「イニシエーションスピーチ」

2018年11月30日

「イニシエーションスピーチ」
藤本三代治会員

あらためまして、藤本三代治です。「三代治」というのはなかなか耳慣れない名前だと思います。漢字では数字の「三」、時代の「代」、政治の「治」と書いて三代治と読みます。これで推察されると思いますが、祖父がつけてくれた名前です。祖父は広島の倉橋島という、当時非常に貧しかった島の生まれですが、一人上京して鶴見に今の私たちの事業の基礎を築きました。私の父は8人兄弟の長男でしたが、私はその長男ということで大いに期待されていたようで、目や耳が悪くなった晩年はどの男孫が祖父を訪ねても「三代治か?」とまずは声をかけるような状態でした。今は亡き祖父の期待に応えられるよう頑張っているところでございます。
私は1968年=昭和43年8月30日生まれで今年50歳となりました。男ばかりの3人兄弟の長男になります。家族は大学時代の同窓生の妻、男の子と女の子の子供が一人ずつの4人家族です。子供は二人とも2000年生まれで双子です。男女の双子ということで、特に女性からはうらやましがられます。「双子なら楽でいいでしょう」と言われることもしばしばありますが、そのことを妻に話すと決まって「別に楽じゃないわよ」と言って機嫌が悪くなりますので、妻の前ではあまりこの話題には触れないようにしています。二人は現在高校3年生で大学受験をする学年になっています。やきもきした気持ちを抑えながら子供たちに接する今日この頃です。
 私は5年ほど前より現職の藤和ビルディングに勤めています。主に自己所有の不動産の管理を行う家族経営の会社になります。祖父が築いた基盤で父が賃貸物件を中心とした不動産運用を事業化したものとなります。以前は社宅なども含めて住居系を中心に一時は500室以上を保有、管理していました。しかし昨今では企業は社宅の保有から手を引き、相続税改定などで多くの方によるアパート経営がブームになっていることなどから住居系賃貸物件は急激に増加しています。これを踏まえて住居系から事業系へと物件の切替えを順次行っているという状況です。
現職に就く以前は東京エレクトロンという会社に勤めていました。ここは半導体の製造装置の開発、製造、販売を主力業務として、その他半導体そのものを扱う部品商社もやっております。製造装置の分野では国内1位、世界では3位のシェアを占めています。この中で私は物流部門を担当していました。横浜市都筑区、第三京浜の港北インターの近くに部品商社部門の物流拠点があり、10年以上をここで勤めました。
マイクロソフトのウィンドウズが登場したのはちょうど私が勤め始めの頃で、私は第三次産業革命の真っただ中をこの横浜の拠点で過ごすこととなりました。日本の家電メーカーが絶頂期を迎え、松下、NEC、東芝、シャープ、ソニーといった名だたる国内企業が顧客の中心でした。その後それらが急速に衰退し、製造拠点を海外に移さざるを得なくなってゆく様を物流の現場で、正に目の当たりにすることとなりました。
物流現場の変化も同時に激しくなる時期でした。顧客の要求は細分化し、効率的かつ正確に対応するために急速にIT化が進み、独自の物流システムの構築が必要となりました。また品質や環境保全管理に対する要求も厳しくなり、当時はやりともなっていたISO9000シリーズ、14000シリーズなども取得することとなりました。これらを主導し成果を上げることができましたが、これでなんとか皮の端くれくらいは残せたものと自負しています。
 その後は主軸である製造装置の保守パーツを管理するパーツ物流部門や管理部門を経て、2010年から2013年までの最後の3年間、製造装置の工場の物流を担当しました。東京エレクトロンでは岩手、宮城、山梨、熊本などに工場があり、私はこのうちの岩手工場に責任者として配属されました。この時は単身赴任でありまして、私にとっては生まれて初めての長期の一人暮らしの経験でした。一人暮らしは新鮮で非常に楽しく、大いに満喫しましたが、この話は追々お酒の席ででもお話しさせていただきたいと思います。
ここでの最大の出来事は、なんといっても2011年3月11日の東日本大震災でした。当日私はたまたま休暇で横浜に戻っていました。交通網が寸断されてしまい、すぐには岩手に戻れなかったため、東京の本社に出社して従業員の安否確認や後方支援に勤めました。幸い岩手の工場は内陸にあったため津波の被害はなく、全員の無事を確認することができましたが、「父親が仙台空港に居るはずだが連絡が取れない」「実家が沿岸にあり、津波で流されていないか心配だ」といった悲痛な胸の内をいくつも耳にすることになりました。
2週間ほどたった頃に羽田から花巻空港への臨時便が飛ぶことになり、たまたまチケットがとれたことからやっと岩手入りすることができました。チケットは1枚しか確保できず、社長が「俺が行く。」と言い出したのですが、「今は現場で動ける人間が必要なんです。」と説得して、何とか私が行くことができました。
この時はちょうどガソリンの流通が止まり、車を動かすことがままならない状況でもあったことから、花巻空港から工場までの足をどうするか正直心配していました。歩く覚悟でもいたのですが、意外にもタクシーが普通に走っていたので助かりました。ドライバーに聞いたところ「花巻空港のすぐ脇に岩手県のLPGの供給拠点があり、このあたりのタクシーは燃料にはまったく困っていない。」とのことでした。このような有事にはタクシーが活躍できるということは目からうろこの発見となりました。
 工場の地震によるダメージは凄まじいものでした。2月末に竣工したばかりの工場がありましたが、装置を出し入れするための5mほどの高さがある大きな扉はレールから外れて倒れる寸前、天井はことごとく崩れ落ちていました。棚やキャビネットの中身は床に散乱していて、よくこれで死人どころかけが人も出なかったものだと思ったものでした。東京エレクトロンでは以前よりグループをあげて地震対策ということで棚やキャビネットの転倒防止策を徹底していましたが、これが大いに功を奏することとなりました。関東でも巨大地震の危険性が叫ばれる昨今ですが、よく言われている通り、皆さんの職場や家庭でも転倒防止対策は非常に効果的だと思うので、実際に体感したものとしてお勧めさせていただきます。
4月に入りいよいよ工場の復旧がだいぶ進んだ頃になって再度大きな余震があり、本震に迫るような被害を受けました。なんとか再稼働にこぎつけた後も、福島の原発事故の影響により入荷してくるパーツへの放射能測定等の管理が必要になるなど対応に苦慮することが多くありましたが、皮肉なことにリーマンショックの影響で業務量が極端に減っていたことが幸いして、なんとか対応することができました。
震災後2カ月ほどたってから、大船渡(さんまの水揚げで有名)に住む友人に津波の被害を受けた現場を案内してもらう機会がありました。被害状況についてはテレビなどの映像で皆さんもご覧になっているかと思いますが、土地々々の地形によって津波で流されたがれきの残り方が全く異なることは興味深い点でした。大船渡港の周りではがれきが1.5メートルほどの高さで真っ平らに積み上がり、遠目に見れば埋め立て地のような様相を呈していました。一方で、一本松で有名になった陸前高田ではがれきは奥の方まで流されて積み上がり、海岸からそこまでの間には何も残っていないという状況でした。またある会社では、津波が迫ってくる中で、同じ職場の中で意見が割れ、建屋に残る者と高台に走って逃げる者に分かれてしまいました。そして建屋に残った者は津波に巻き込まれながらも天井の空気だまりができていたことで助かり、逃げたものは逆に間に合わずに津波に流されて助からなかったそうです。「こういう時には何が幸いして何が災いとなるかがまったくわからない。」という言葉は非常に印象に残りました。このように復興に向けてほとんどまだ何も手についていない状況の中で、現地で起こっていることを生で見聞きできたことも貴重な経験だったと思います。
東京エレクトロンを退職して家業に入ることとなりましたが、半導体から不動産管理という全く畑違いの業種へ、大きな組織から最少人数へという非常に大きな環境の変化がありました。とりわけサラリーマン時代には意識しなかった地元の方とのお付き合いについても必要性を感じることが多くなりました。その中でこの横浜東ロータリークラブに入会させていただき、地元に根差した多くの方ともお知り合いになれ、非常に良い機会を得ることができたと思っています。より良いお付き合いをしていただけるよう努めてまいります。皆様におかれましてもご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

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