活動報告

第35回例会卓話「爺々放談」

2019年04月05日

「爺々放談」
松本英二名誉会員

最近、人生100年と言われておりますが、私の子供の頃は人生50年でした。従って還暦を迎えた人は赤い頭巾と袖なしの羽織を着て祝っており、殆どの人が老人そのものの姿であったことを思い出します。現在はどうでしょう。60歳になってもまだまだ元気そのものです。労働人口の減少ということもあるが、70歳定年の声すら出ている。私も還暦・古稀・喜寿・傘寿・米寿の節目をこえて今年の1月には89回目の誕生日を迎え、来年の卒寿という最後の節目に向かってあゆんでおり、今秋のラグビーW杯、また来年のオリンピックも楽しみたいと図々しく生きております。長く生きていると色々なことに遭遇します。平成31年も今月30日で終り来月1日からは新元号令和元年が始まります。この両日が祝日になることで10連休になり、ダイヤモンド連休とか言われていますが、私などは驚きません。365連休の身ですから。
 日本は大東亜戦争が終わってから74年になりますが、この長い間戦争に巻き込まれていません。誠に素晴らしいことです。然しこの戦争が敗戦に終わったことにより、米国の占領が戦争期間(3年8カ月)の2倍に亘る7年間という長期の占領になり、この間の占領政策、特にWGIP(戦争犯罪意識を徹底的に植え付けるための宣伝計画)により、日本人としての良き国民性が年々失われつつあり、自己中心的な性格、自分さえ良ければ他はどうなっても良いと考える人が多くなってきました。
イジメ、学校や職場でのイジメが死に致らしめたり、親が我が子を虐待するなど考えられないことが起きている。毎日のように殺人事件が報道されたり、我々国民の代表である国会議員の品格のない言動などあきれるばかりです。あげればきりがありません。残念なことです。海外からも馬鹿にされっぱなしです。北方四島や竹島は日本の領土でありながら外国に実効支配されたまま、拉致問題も解決できず、既に解決済みの従軍慰安婦や徴用工問題まで持ち出される始末、一体どうなるのでしょうか。私ごときが心配してもどうにもなりませんが心配です。このような状態になったのは大東亜戦争の敗戦によるものですが、この大東亜戦争が起こった原因は日露戦争にあると私は思っています。しかも勝利したことが大きいと思っています。日露戦争については短い時間で語れるものではありませんが、今日はこの戦争の勝利を決定した日本海海戦のあらまし(勝利の裏に日英同盟があったことがあげられる)と日英同盟締結の功労者ともいうべき柴五郎と軍資金獲得の功労者の高橋是清について私の独断と偏見に基づいてお話させていただきます。
日露戦争は極東軍事裁判以降、侵略戦争と定義されましたが諸外国では白人支配の常識を覆した偉大な戦争とされています。日露戦争までは地球社会は白人が支配するもので、有色人種は劣等な人種であり白人と同等の扱いをすべきではないとされていました。かの有名な哲学者のモンテスキューは「アフリカの人間の形をした黒い動物は神様が我々白人の奴隷として使用するために下さったものである」と豪語していました。因みに日本人は黄色人種として白人と黒人の中間に位置していました。然し日本が勝利したことにより白人支配の常識は崩れ去り、ロシアの支配を受けていた国々に独立の動きが起こりました。そのよい例としてフィンランドが挙げられます。フィンランドでは東郷平八郎の肖像画のラベルを貼った東郷ビールが現在も販売されています。日露戦争は侵略戦争ではありません。地球社会の発展に大きな貢献をした戦争でした。
次に日本海海戦を側面から援助してくれた日英同盟の陰の功労者ともいうべき柴五郎について話しをさせていただきます。
明治30年(1897年)頃から欧米の列強国は清国に進出しましたが、清国にこの進出を阻止するために明治33年(1900年)に「義和団」が誕生しました。義和団は清国を助けて西洋を滅ぼすことを旗印として掲げて北京に入り各国の公使館を包囲しました。この様な不穏な動きがあったので日本は明治32年(1899年)に北京の公使館に駐在武官として柴五郎を派遣しました。当時39歳で陸軍士官学校出身の中佐で英語・フランス語・中国語に精通しており、事前に周辺の地理を十分調査し、中国人のスパイを使って情報網を構築して他国軍と協力して実質的な司令官として各国の公使館を守り通しました。百田尚樹氏の日本国紀によれば、ロンドン・タイムズ誌は社説で「籠城中の外国人の中で日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したとあるその功績は柴五郎によるところが大きい。
彼はその功績により英国をはじめ各国政府から勲章を授与されている。当時の英国公使のクロード・マクドナルドは柴五郎と部下の勇敢さと礼儀正しさに深く心を動かされ、ロシアの南下政策に危惧の念を抱いていた英国首相に日英同盟の構想を熱く語り、同盟締結の運びとなり明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれました。
日露戦争は明治37年(1904年)2月10日に両国の宣戦布告で開戦されました。当時のロシアの軍備力は常備兵力は約300万人、日本は約20万人、コサック騎兵隊を擁する陸軍とバルチック艦隊を擁する海軍は共に最強とされており、世界の列強国は日本の完敗を予想していました。緒戦の鴨緑江の戦いや乃木大将の率いる203高地の戦いで互いに多数の死者が出る激戦になり、明治38年(1905年)1月に旅順を陥落させ、3月には奉天会戦で秋山好古少尉の作戦が成功し、ロシア軍を退却させた。戦争もここまでかと思わせたがロシアは講和する意思はなかった。それは世界最強と言われたバルチック艦隊が前年の10月に25隻の艦隊を組みバルト海を出てウラジオストクへ向かっていたからである。この艦隊がウラジオストクへ入れば、日本と大陸間の輸送路は断たれ、日本は艦隊を撃滅する以外に方法はなかった。艦隊はバルト海を出て北大西洋・南大西洋・インド洋・南シナ海・東シナ海・対馬海峡へと7カ月もかかってしまった。これは日英同盟により英国の妨害で殆ど港に入れず燃料や食料の補給に苦しんだ。当時は冷蔵庫もなく食料を新鮮な状態で保存することも困難で、水兵の多くが飢えと病気で苦労したと言われている。日本海に到着した時には厭戦気分が強かったのではないか。バルチック艦隊が日本列島を迂回して太平洋を通ってウラジオストクへ向かうことができなかったのは燃料が欠乏して最短距離を取る方法しかなかった。因みに25隻で出発した艦隊がウラジオストクへ入港できたのはたった4隻という状況であった。実に21隻は撃沈されていた。若し日英同盟が結ばれていなかったらと思うと背筋が寒くなります。
日本海海戦に勝利した日本は米国のセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を依頼し、明治38年(1905年)8月、米国のポーツマスで講和会議が開かれましたが、日本の要求は悉く拒否されました。これはニコライ2世が「一銭の賠償金も一握りの領土も提供してはならない。若し、賠償金にこだわるならば、戦争を継続しても良い」と命令していたためで、日本は戦争再開となれば最終的に敗れることになるとわかっていたので「賠償金なし」「樺太の南半分を日本に譲渡」という妥協案で講和を結び戦争終結となりました。然し国民は賠償金を取れない政府に対し怒りを爆発させ、日比谷公園で集会を開いた。集まった民衆は暴徒と化し、大臣官邸や周辺の警察派出所を襲撃し東京市内にも火がつけられ激しい暴動になった。日比谷焼打事件といわれている。
次に高橋是清の話をさせて頂きますが、日本はこの戦争の資金として約1億円が不足しており、1000万ポンドの外国債券を発行して補おうとしましたが、開戦と同時に「日本の勝ち目なし」として外債は暴落しており引き受け手はどこにもなかった。明治35年(1902年)に同盟を結んでいた英国に依頼しましたが、英国はこれを引き受けると軍事提供になり、中立違反となるとして腕をこまねいていた。この時に英国に外債引き受けを認めさせたのが当時の日銀副総裁の高橋是清であった。彼は自らロンドンへ出向き「自衛のためにやむを得ず始めたものであり、最後の1人まで戦い抜く覚悟である」と訴え、中立違反の問題についても「米国の南北戦争の時に中立国が債券を引き受けた前例がある」と説明し英国を納得させて500万ポンドの債券を引き受けてもらうことに成功した。さらに彼はロンドン滞在中に帝政ロシアを敵視しているユダヤ人銀行家と懇談しニューヨークの金融業界に残りの500万ポンドの債券を引き受けてもらうことに成功しました。日本は彼の活躍により軍資金が整いました。
高橋是清はこの資金調達の活躍により、その後貴族院議員、日銀総裁、大蔵大臣を務め大正10年(1921年)には総理大臣を務めた。昭和2年(1927年)には3度目の大蔵大臣を務めたが在任中に起こった金融恐慌で全国的な銀行取付騒ぎが起きたが、支払い猶予措置を断行すると共に、片面だけ印刷した200円札を大量に発行し、各銀行の窓口に積み上げ預金者を安心させ、金融恐慌を瞬くうちに鎮静化させた話は有名である。彼はこのように金融に明るく判断力と決断力に優れた偉大な政治家であったが、昭和11年(1936年)に6度目の大蔵大臣在任中、軍事予算の縮小を図ったところ、軍部の恨みを買い、青年将校等に射殺されました。世に言う2.26事件です。享年81歳でありました。さてこれからが大東亜戦争への繋がりついての話になります。
日露戦争に勝利したことで世界の列強の日本を見る目が変わりました。日本に好意を持ってくれる国もあるが称賛する国ばかりではなかった。その一つが米国である。満州への進出を目論んでいた米国は講和会議後、日本に敵意を抱く様になった。やがて日本とは戦争になることを予想して明治38年(1905年)にオレンジプランなるものを作成した。むろんオレンジとは日本を指している。このプランにはどの様に戦うか、当然勝利することを予想し占領機関も短期か長期か占領政策も考えられていた。日本に対する嫌がらせはこのころから始まった。大正2年(1913年)には排日土地法を成立させ日本人の農地購入を禁止した。大正9年(1920年)に国際連盟が誕生し、日本は規約に「人種差別撤廃」を入れることを提案し投票の結果賛成11票反対5票で多数決で決まると思ったが、議長国の米国は「このような重要な案件は全会一致でなければならない」と没にしてしまった・大正13年(1924年)には日本からの移民禁止、昭和に入ってからはA・B・C・D包囲陣が敷かれ、真綿で首を絞める嫌がらせが行われたことが決定的になり自衛のために大東亜戦争は始まりました。
ご清聴感謝いたします。ありがとうございました。


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